生きるをほんの少し真面目に考えてみる

自殺未遂で入院したり、はたまたバイクで事故に遭い入院したり、この1カ月ほどは「生きるとは何なのか」という疑問に自然とたどり着くことが多かった。

 

生物的には、心臓ないしその他の臓器が正常に動いていることだと思うが、ヒトとして、人間として「生きる」とは何で、どうすればそれを実現できるだろうか。せっかくの機会のなので少し真面目に考えてみた。

 

結論からいうとわたしの答えは「自分自身が生きていると肯定的に認知している状態」、これが「ヒトとして生きる」だ。

 

なんとナンセンスな答えと思われるかもしれない。何せ「生きる」を定義するために「生きている」というワードを利用しているからだ。これはわたしもそう思う。ただ、色々考えてもやはりそれ以上に適切な言葉が見つからなかった。これは目を瞑ってほしい。

 

さて、上記の問題はさておき、わたしが定義する「生きる」を実現するためにはどうすればよいだろうか。これについては、自身の状況を認知するというのはヒトとして非常に重要だとわたしは考えている。以下にわたし自身を例にあげよう。

 

以前の鬱状態のとき、わたしは「30までに死にたい」と何度も周囲に漏らしていたことがある。この30という数字にはあまり意味がなくて、言ってしまえば今死のうが1年後死のうが10年後死のうが何も変わらないという事だった。だからこそわたしは自殺未遂という、他者から見れば愚かしい行動を実行したのだ。そしてこのとき、「生きている」という認知は皆無に等しかった。だからこそ周囲の生きろとか死ぬなとかそんな言葉は意味を成すはずもなかった。

 

もちろん、この時のわたしも死ななくていいのであれば死にたくはなかった。しかし、死を選択する以上に苦痛なものが自分の頭の大部分を占め、わたしを蝕んでいたのだ。

 

そして自身が困難の中にいるとき、この「生きている」という認知を持つのは言葉でいうほど容易ではなく、ほとんど不可能といってもいい。僕自身がこれを認知するためには、自分自身の悲しみや苦しみの根本を探り、そしてそれを他者に開示し、自分を蝕む困難を客観視できるようになってからだ。そしてそれができたとき、はじめて自身の認知が再構成され「わたしは生きていてよかった」と実感することができた。

 

このとき、なぜわたしが「生きていてよかった」と思ったのかは正直自分でもわからない。ただ、その日の病院の夕食は信じられないほど美味しく、わたしは手を震わせ、涙を流しながら食べた。この日から少なくとも今日まで、わたしは「生きている」を肯定できている。

 

上記の通りがわたしの場合だが、つまりは「生きている」と肯定的に認知するには、少なくとも困難の中から外に出なければならない。困難が大きくなければ自分一人でも外に出れるやもしれないが、大きいとこれは他者の助けを多く必要とする。なぜなら、大きすぎると自身では大枠を認知することがそもそも容易ではないからだ。そのために、自己開示をすることで多者の反応を引き出すことが有効だ。他者の反応が大枠の把握の大きな助けとなる。大枠がわかってくれば、そこから困難を自身のカテゴリに分割し、最終的に外に出せる。

 

上記の他者は親でも友人でもカウンセラーでもよいが、案外開示するのは慣れ親しんだ間柄でも難しい。わたしの場合は、他の精神疾患の患者が初めてだった。全く同じじゃないにしても似ているような症状を抱え、なおかつ自身の事情を多くを知らないのが返ってよかったのかもしれない。なんにせよ、一回他者に自己開示ができたのであれば、他の人へ開示するときにそれが勇気になる。

 

と、上記の様に少し真面目に考えてみたのだが、もし何某かがこのブログを読み、そして自身が「生きている」と肯定的に認知できていないのであれば、困難を外に出すことに努めるのもよいかもしれない。

 

まだ多く語れることもあるかもしれないが、今日はここで筆を置こう。