自分自身のあり方を再定義する

さて、Twitterをやめて3日目なのですが、入ってくる情報がそんなに多くないので、自分が既に持っている情報を精査するという方向に思考が向いていっています。

 

今現状、多少の問題はありつつも、そこそこ現状を肯定して生きていけているのですが、そもそもなんで今は平気なんだろうかなんてことを散歩中に考えてました。でいろいろうだうだ考えた結論としては「幸福の定義」が変わったんだと思います。うわなんか胡散臭い話になってきたなーなんて自分でいってて感じますけど。

 

で、そもそも問題として以前のわたしが明確に「幸福とはどういう状態か?」というのを定義していたかというと微妙なのですが、今になって振り返ってみると「社会的な地位や立場が相対的に高いこと、ないしそれに付随するものが得られていること」だったのではないかと思います。

 

社会的な地位というのがまずそもそもとして漠然としているのですが、例えば学歴とか会社とか、そんなようなものですかね...?自分で言ってて曖昧なんですけど。正直言ってわたしは恵まれている環境に育っているという自覚はかなりあって、必要なときに必要なだけの教育を受け、衣食住が脅かされることもなく、それなりの会社に入ったと思っています。これは今も変わらないです。

 

ですが、前のわたしはそんな自分が「不幸である」と感じていました。実際、鬱にもなりましたし、自殺もしようとしました。でもいまは「めっちゃ幸せ~」とまではいかないにしても「不幸である」とはあまり思っていません。でなんでかなーと考えてみたときに、自分自身の「幸福の定義」が変わったからではないだろうかという仮説がでてきたわけですね。

 

わたしのいまの幸福は「自分自身の日々の変化や成長」です。たとえば爪を噛まずに伸ばすとか、デッサンを毎日続けるとか、そんなことです。この定義のいいところは他者への依存度が上で述べた社会的地位が云々よりも圧倒的に低いところです。自身を肯定するために他者の肯定を必要とするのは、そもそもアイデンティティを保つのに労力がかかり過ぎますし基盤として脆すぎます。もちろん、社会的地位をある程度維持しないと生活も維持は出来ないので、軽視は今もしてないですけどね。

 

さて、自分自身の定義を明示的に書いてみて思うのですが、「幸福でない」状況が定常的に続いているとき、人は「幸福である状態」を再定義する必要があるのではないでしょうか。いやもちろん幸福でなければ生きられないわけではないのですが、そうであった方がいいという考えのもとです。結局、そこが感じられなければ何年生きても同じなため、わたしのように自殺を選んでしまったりするのではないでしょうか。

 

まあそんなこんなを考えてみた独り言なのですけれど、「あなたはいま幸せですか?」と問いかける前に、「あなたの幸せは何ですか?」という問いが先に来るべきだなぁなんて思ったりして。

 

そういうわけでここで筆をおきます。