正しさを委ねないことの難しさ

今日、散歩をしていて思ったことです。

 

身の上話で恐縮なのですが、わたし自身これは出来ていると思い込んでいたいました。ですが実は結構できていませんでした。というのも、わたしはあまりに自己を否定して生きてきたので、心の底では「お前は正しくない」と他人に言われたかったのではないかと思ったからです。つまり、自分自身のありようを他人任せにしようとしていたのです。

 

これはわたしが気付くずっと前から言われ続けていることな気がしますが、あらゆる情報がすぐに手に入る昨今、自分で答えを出さなくとももっともらしい答えというのは見つかってしまいます。しかし、自分のありようまで他人に預けてしまうことは非常に安易で、そして危険なことだと思います。

 

これはあくまで個人の意見ですが、「自分は無価値だ」、「死んでも問題のない人間だ」といったような自己否定的な考えを他者依存にすると、その証拠集めはいくらでもできてしまうからです。つまり、他者の発言や表情、声のトーンなどをそこに結び付けることでいくらでも自己を否定できてしまうのです。しかし、大抵のことは案外事実ではないことの方が多いもので、自分自身の歪んだ評価軸が目の前の光景すらゆがめてしまい事実を見つけられないだけなのです。

 

とはいえ、自分を見つめなおすなんて簡単に言いますがこれもまた難しい問題です。なぜなら、自分を見つめなおすためには自分以外の意見が必要だからです。すなわち、自身の軸を自分の中に置きながらも、他者の意見を取り入れて軸の位置を調整するという作業が必要になるわけです。これには理解のある協力者の助けが不可欠だと思います。

 

さて、そんなこんなでダラダラと自分の意見を書いてみたのですが、SNSで散見される、自虐的発言が多い人はこういった他者への依存度が高いように思います。そして、こういった発言のためうまく理解者を得られないこともしばしばあります(わたしもそうでした)。それがまた自虐を加速させて、衝動的な行動(他者への暴言、不必要なものを大量に購入する、過度な飲酒...などなど、すべて過去のわたしが実際にしていたことです)が多発していき、最終的には破滅してしまうのです。

 

ここまで来たら適切な治療を受けるために、場合によっては精神科への入院も必要なのではないかと思います。精神科で精神疾患と診断されることは「社会不適合者のレッテル」でも「異常者の称号」でもないのです(昔のわたしも実際にこう言った自虐的発言をしたことがありますので大きなことは言えないですけどね)。そして、精神疾患で休むことは怠惰だからではありません。休む必要があるから休むだけなのです。

 

そんなところで、いつもより熱が入ってしまいましたが、ここで筆をおきたいと思います。